よそ者が口を出すとき


ずいぶん前から、町おこしや地域づくりの際には「よそもの、わかもの、ばかもの」の3つの者がキーワードだと言われています。

意味はこちらをどうぞ。

http://www.asahi.com/shimbun/teigen/teigen23.html

 

上記リンクでも特に深く語られている「よそもの」という言葉は、小笠原に関わってから常につきまとってきたものでした。

 

私が小笠原と深く関わるようになったのは、兄島空港問題からです。この空港建設が現実味を帯びてきた1980年代後半はバブル絶頂期、兄島と父島をロープウェイで結ぶという荒唐無稽な計画も、金の力で成り立ってしまうかのような勢いでした。

この計画が持っていた問題点については、こちらが詳しいです。

http://www.nacsj.or.jp/katsudo/ogasawara/1995/04/-3.html

 

この頃、私は仲間と小笠原ネイチャーフォーラムという会をやっていて、会そのものは小笠原を愛し、内地の小笠原サポーターという感じでの活動が中心でした。兄島空港に関しては、会としては断固反対!というよりは、内容をよく知ってから意見を言おうというニュアンスで活動していました。

 

とはいえ、上記サイトにあるように空港計画の無茶っぷりには反対でしたので、作るなら島の生活にそった小さい規模のものをという形での意見は言ってました。はっきり反対と言わなかったのは、一つはこの会は島の人と協力し合う形で生まれた会であり、その島の人たちも「空港計画を考える」という形で活動していたからです。それなのに、よそ者である私たちが「反対」と言ってしまうと、賛成、反対という大きなくくりの中に大別されてしまい、レッテルを貼られて意見が通りにくくなるという面もありました。

 

今でもいろんな場面で「よそ者が意見を言うことはよくない」という自制とも言える言葉を聞くときがあります。たとえば、震災後の東北の復興に関する諸々について。

「自分は住んでないから、意見を言う立場ではない」という言葉、よく聞きますよね。

でも、これってある意味、こうして「逃げ」を打つことで、責任を放棄してないだろうか?と最近思っています。

 

今、私はそこに住んでいなくても、その土地に対してなんらかの関わりを持ち、愛着を持ち、今後も関わっていきたいという思いを持っているなら、意見を言ってもいい、というかいうべきだと思うようになりました。

 

よそ者だからこそ見えること、言えることってあるはずなのです。しかし、それをいってしまったら、自分の大好きな場所で、イヤな思いをするかもしれない。今まではそこに行けば夢のように楽しくて、日頃のストレスが抜けていってリフレッシュできたのに、口を出したがために非難されたり、飲み屋で絡まれたりするかもしれない。

 

だったら「住んでないんだから意見を言うのはやめよう」、よく聞く話です。でもこういう人に限って身内の場では「自分自身はこの土地に対して××と思っているけどね」というようなエクスキューズをいうことが多いです。

 

これは、自分の「日常」「現実」と、夢のような大好きな場所を切り分けている行為ではないでしょうか。

 

どういう立場でも、その土地に関わり続けたいと思っているなら、イヤな思いをしたって口を出す方が大事じゃないでしょうか(もちろん、いい逃げは論外ですが)。

 

空港のことから20年以上経って、今、そんな風に思っています。

よそ者は、よそ者としての役割を果たそう、と。

 

画像は島の人々で作られた「小笠原航空路を考える会」の会報です。1992年1月のもの。クリックで拡大します。

これを見ると、島の人々は「こういう島を作りたい」という意思をはっきり持っていたんですね。この姿、2014年の今、結構近づいていることに驚きます。

兄島には上陸できなくなりましたが……。


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