有川美紀子のプロフィールなどは「仕事」「プロフィール」をクリックしてください。

新しい生活を考える(1)

 

横浜は好き。

でも、マンション暮らしはそろそろいいかな……と思い始めたのは2〜3年前から。

マンションはラク。修繕費管理費を払えば、管理計画に基づいて修繕はされるし。

でも、基本的にカプセルの集合体みたいなもので、ドアを開けないと外とつながれない仕組みになってます。むしろ、そうしたい人たち(プライバシーを守りたい人たち)のために作られたとも言えるので、それはしょうがない。

 

もっと縁側みたいな場所があって、ゆるく外部とつながってる家に住みたい。

いや、「そういう家に住みたい」ではなくて「そういう暮らしがしたい」って、文字で書くとこの「暮らし」という言葉にアレルギー反応が自分にもあって、お前はロハス教かと自分突っ込みしたくなるんだけど、巣の中だけよければいいって暮らしにちょっと飽きたというか何というか。

 

とはいっても単に縁側があって表に面している家に住めば今感じてる欲求不満が解消できるとも思えない。どういうふうに生活を成り立たせていくか、経済面含め「芯」をもたないと単なる引っ越しで終わってしまう。

 

こういうちょっとした変わり目というか転機はいつもどこかからGOサインが出るような形で始まる。

「もっと生活者目線で島のことを知らないと小笠原のことが書けない」と思い、

1年半程度母島に移住したときも、決心してから2ヶ月ほどで今の家に住んでくれる人がみつかり、母島で部屋を貸してくれる人が現れ……という具合にどんどん望む方へ転がっていった。

行って見た結果、オガサワラオオコウモリの本を書く話が舞い込み、その後、小笠原自然文化研究所とこども向けの本を作る動きにもつながっていった。

 

この1〜2年、何か新しい暮らしのヒントになりそうな場所やイベントを見つけると、とりあえず行って見るようにしていた。

行ってみないとそれが是か非かも分からないしイヤだったらもう行かなければいいんだし。

そこで分かったのは、今あちこちで開かれている移住をお勧めする系のイベントは、

元をたどれば政権の「地方創生」の予算が国→団体や官庁外郭団体などに降りてきていて、

そこから、既存の業態を現代的なアプローチで展開している企業(うまく言えないけど、ものすごい誤解を恐れずにいうと、慶応SFC出身の人たちがやってるようなベンチャー的なスピリットもったところ(笑))に業務を下ろしていて、オシャレ系移住イベントになっているのだということ。

 

こういうイベントの対象は基本的にせいぜい40代まで。

なんだかんだいっても、過疎化が進んでいて消滅都市の可能性を感じている地方都市が欲しいのは、生産人口でできればこれからこどもを産む夫婦。

1回行って、ああ、もういいやと思ったイベントや集まりもいっぱいあった。

それは自治体(と、そこから仕事を受けている組織)の都合。だったら自分の都合を優先できる場所を探すしかないな。

 

朝日新聞出版のdot.というWEB媒体に記事を書いているけど、その取材にかこつけて、おもしろそうなところにいろいろ出掛けていっていた。

継続してこの場所で知り合いを増やしたい、この場所いいなと思っているのは2〜3箇所。

次回から、私が興味深いと思った場所について1つ1つ記していきたいと思います。

 

2016 八丈島紀行 ひょいっと(2)ウルクラフト 蜂須賀江理子さん

前のアップから相当間が開いてしまいました。

ちょうど、前回のAMONGの記事を書いたすぐ後に、自分のライフワークの仕事で、かなり力を入れていた文章について、もう身もフタもないほど徹底的にボロカス言われたのみならず、私の生き方まで否定されるという出来事があり、しばらくの間、文章が書けなくなっていました。

 

私は文章を書いて食っているわけですが、仕事の文章さえ、2度3度書き直しても「本当にこれでいんだっけ」と自信が持てなくなる始末。

また、こういうときはなぜか仕事が途絶えるものなんですね。

  

やってきたこと全てに自信がなくなり、一瞬前向きになってもまた沈み、浮き上がれない水の中でもがいて溺れてる感じでした。

気持ちを立て直せたのは、5月の終わりに小笠原に行ってからです。取材でもあったのですが、自費取材だし、取材以外の時間、島の中では自分を見つめ直して問いかけ直す作業に終始しました。

 

そこでやっぱり自分は自分がやれることしかできないなと思い直したわけです。

ただ、今の時期にがつんと手痛い指摘をもらったのは、自分の手の内をもう一回見直せというお告げなんだと解釈し、今ふたたび、ぼろくそ言われたテーマについて取り組み直しはじめたところです。

これ以上の泣き言は、やるだけやって、それでもダメだったときにしようと思い、何とか浮上しはじめたのが今、そんな数ヶ月でした。

 

ということで、前置きが長くなりましたが、八丈島紀行第2弾です。この方もまた、すごいことを「ひょいっと」やっているのに何の気負いもなく、やっていることをとことん楽しんでいるところがとても気持ちいい方でした。

 

続きを読む 0 コメント

薩摩硫黄島〜桜島への旅・番外編1 フェリーみしま

6月23日〜26日、薩摩硫黄島と桜島という2つの島(桜島は地続きですが)を旅してきました。

薩摩硫黄島に渡ったのは24日。島にはセスナでも行かれますが、私たちは定期船である「フェリーみしま」で島に行きました。

いつも、船でしか行かれない小笠原に行き慣れているので、ついつい船の中を興味深く探索してしまいました。



続きを読む 0 コメント

薩摩硫黄島〜桜島への旅(4)

続きを読む 0 コメント

薩摩硫黄島〜桜島への旅(3)

もうね、すっごいんですよ!!

続きを読む 0 コメント

薩摩硫黄島への旅(2)

朝、9:30に鹿児島港を出港、定期船「フェリーみしま」出港、

大雨でした……。

おまけに、錦江湾の中から大荒れ……。

雨、風、そして波……。

もしかして、硫黄島に着岸できないのかもと思いながらの出港でした。

途中に寄った竹島は大雨。

竹島は名前の通り、竹(大名筍……めだけ)に全島が覆われた島ですが、いったい、島を覆っているのが竹なのか何なのか分からないぐらいの状態でしたが、どうにかこうにか!硫黄島に上陸できました。


しかし、大雨はずっと続き、三島村観光案内所の大町祐二さんに案内してもらい車で岬橋という集落や港を見下ろす場所に行ったときにもどんどろどんどろした雲が島の上部を覆い、硫黄岳も稲村岳も矢筈岳も何も見えない感じでした。この橋からは、本来なら口之永良部島も見えるという話だったのですが……。


しかし、その後、噴煙と硫黄が露出している、火口から1.5kmぐらい下の場所を見られる道にいるあたりからだんだんに雨脚も衰え、夢中になって写真を撮っている間中、雨もやみ、ほのかに日が差してさえ来たのです。


硫黄島は硫黄を産出して、10世紀末ぐらいから中国に輸出していたという歴史があります。

あらわになった硫黄のかたまりが三島村観光案内所にありましたが、薄いレモン色のようなきれいなイエローカラーをしています。

硫黄島の硫黄は純度が高く、輸出上も重宝されていた極上品とのことでした。


その硫黄の色があらわになって、今も噴煙が上がっている山肌を見ると、月並みですが地球は生きているなーと思わざるを得ません。


続きを読む 0 コメント

鹿児島〜薩摩硫黄島への旅(1)

薩摩硫黄島へ行こうとしています。

続きを読む 2 コメント

島暮らしのお金の話 その2

1年で100万あれば、島で生きていけるんじゃないか? 特に仕事をしなくても。と思った私。


当時、私の人生上もっとも貯金があったので、もう少し食い込んでも大丈夫だろう!という甘い見込みでGO

 積極的に島で仕事をしようとしなかったのは、もともと最終的に島を理解するため、もっと深く知って文章に活かすためだったので、なにか見逃せない取材の機会があったらすぐに動けるようにしておきたかったからでした。
(しかし、バイトを何個かして、やっぱり島の中で働かないと見えないものもあるなとも思いましたけどね)。

続きを読む 0 コメント

島暮らしのお金の話 その1

大変に間が空いてしまいました。

少しずつ、更新し直していきたいと思います。

 

さて、何回か書こうとして書けなかったネタ。

島で暮らすと、お金はいくらかかるのか?! 

 

私が居候生活が申し訳なくなってアパートへとうつり、一人暮らしをするようになってから、いったいいくらかかっていたか?

 

当初、島に行く前は居候してもいいと言われ、移住した当初は家賃、光熱費、食費までも丸抱えでお世話になっていました。

なので、ざっくりと、1年間に100万ぐらい見ておけば暮らせるのではないか?と考えていました。

 

当時、毎月必ず必要だったお金は約6万。

・家のローン+管理費 約4万円

・ゆうちょ簡易保険  約2万円

 

これを、私がいない間に誰かに家を貸すことでまかなえないかと考えました。うちは56平米あります。横浜で暮らしたいと言っていた人のトライアルとかにどうだろう?と。一部屋は納戸扱いで持っていかない家財を置かせてもらおうと思っていたけど、一人か二人暮らしなら入ってくれる人はいるんじゃないか?と思い、心当たりに片っ端からメールしました。

不動産屋を入れることも考えましたが、1年限定で帰ってくるのに不動産屋を入れるほどでも無いかなと思い、まずは顔が見える関係の中から候補者が現れるのを待ちました。

 

数人が興味を持ち、駐車場の有無や、今の賃貸から移っても1年で出なければならないリスクなどを考えて話が流れましたが、古い友人の弟夫婦がちょうど上京を考えているので、お試しで1年横浜に住んでもいいと言ってくれ、話が成立したのは2月か3月だったと思います。

島に行くと決心したのは1月だったから、結構いいスピードでしたね!

 

家具家電はすきに使ってもらうことにして、6万円を使用代としていただくことにしました。これで、簡保とローン+管理費問題は解決!

入ってくれた夫婦は毎年遅れることなく使用代を払ってくれ、出るときも部屋をすごくきれいに掃除して出て行ってくれました。

 

あとは、連れて行けない猫(野性味が強く、多分脱走して鳥を捕まえるだろう猫)を預かってくれる友人に、えさ代もろもろで月5000円払うことにしましたが、これは4〜5ヶ月ぐらいしか払わなかったと思います。いらないよ!といってくれた友人に限りなく感謝……。

 

そして、移住して3ヶ月でアパートに移ったわけですが、ここからが大変だったです。

 

アパートは6畳一間、家賃は6万、保証人は必要でしたが、敷金礼金は無し。必要最低限の家電は付随していて、かつては家賃が7万円である代わりに、家電が破損したときには大家さんが取り替えてくれるという形態だったのですが、私が入った時は家賃が6万円に値下がりし、家電の破損は店子が自分で何とかするという形式に変わっていました。

これが何を意味するかというと、つまり、経年劣化により各戸の家電が一斉に壊れ始めたため、大家さんがこりゃたまらんと思いこういう形式に変えた時期だったと言うことです。

このリスキーなタイミングは、住んでいたたった1年数ヶ月の間に私に大きな負担となってのしかかりました(詳しくは次回!)

 

単純に、100万を12ヶ月で割れば1月8万ぐらいは使える計算。

予備費も含めて、住みかと食費がいらないのであれば充分暮らせるはずでした(とはいえ、居候代として2万円は払ってましたが……)。

が、現実はそう甘くはなかったのです。

よく考えれば当たり前の支払いが、島での暮らしを圧迫していきましたっ!

 

では、当時のクレジットカードの記録と併せて、次回、まず住みかと食費がいらないにしてもこれだけかかったという実際の家計簿を公開します。

続きを読む 0 コメント

島でやってたこと・水中セラピー

http://ameblo.jp/ogasawarajikan にも書いていましたが、島で毎日のようにやっていたことがいくつかありました。

それは別に仕事とか人にほめられたり誇ったりできるようなものではなく、好きでやっていた「習慣」みたいなものです。

 

話は変わりますが、このところどうも横浜での日常がイケてません。

4月に、今後、毎月来るはずだった仕事がいくつか立て続けにポシャって以来、どうも心に暗雲を、唇に愚痴をという感じで悪い循環にはまっている気がします。

 

今年の誕生日(7月)は、このところの10年ではかつて無い不安とか、落ち込みとともに迎えた感じで、こういうのは以前病気になった10年前と同じ感じだなあ……と思ったりしていたのですが、そのときと同じループにはまらぬよう、なんとかやれることをやってテンションを上げようとしている日々です。

 

そんなとき、毎日島で楽しんでいたことを思い出します……。

その1つは自転車爆走で、なんども書いていますが、私の島生活の相棒だったアシスト付き自転車で新夕陽丘とか結構高台まで一気に登り、そして帰りに静沢のほうに降りてきて、傾斜20度はありそうな坂をスゴイスピードで、でも制御しながら下りきる。

 

最高にムシャクシャしたときにクレイジーケンバンドの「ギラギラ」をiPodで聞きながら、大声で歌いつつ爆走したときの開放感は忘れられないです。

 

続きを読む 0 コメント

小笠原がほかと違う理由?(1) 歴史を知らないと分からないこと

よく自己紹介でもいいますが、私は小笠原と出会う前に国内外あわせ50〜60の島を訪れています。プライベートでも、仕事でも、時間があれば島に行ってたような気がします。

どの島も、帰るときには「もう一度ここに来たい!」と思いましたが、「いつかここに住みたい!」と思ったのは小笠原が初めてでした。

それは、やはり若い島だから、よその人をオープンに受け入れてくれる島だから……。そんな風に感じたように記憶しています。

 

「若い」というのは、小笠原は1968年に米軍統治から日本に返還され、歴史の作り直しをした島だからです。

1945年、日本が敗戦を迎えたとき、沖縄、奄美と、そして小笠原は米国の信託統治領となっていて、小笠原は米軍の統治下に置かれていました。

1946年には欧米系住民だけが戻りましたが、全島民が強制疎開させられ、一時期は米軍しかいなかった土地は小笠原だけです。奄美も沖縄も、住民が居ながらにして統治下に置かれていたので。

 

1968年、小笠原が日本に返還された時、全島民強制疎開から実に23年もの月日がたっていて、アンケートでは7割の元住民が「すぐに戻りたい」と希望を口にしていたものの、実際に戻った人はそれよりはかなり少なかったのです。

23年はあまりに長すぎました。

 

一方で、小笠原という新しい場所に魅力を感じて移り住んできた人は結構いました。今、すぐにその比率が出せなくて申し訳ないのですが、新しい日本の領土、南の美しい島に、インフラなどが整っていなくても移り住んできた人もたくさんいたのです。

今に至る小笠原の歴史の第3幕は、このときにリスタートしたといえるでしょう。もともと、よそから移り住んできた人が多い島だったんです。

 

沖縄も、伊豆諸島の各島も、それ以外のたくさんの島も、旅人として訪れる私に「こんなすてきな場所があるんだ!」と思わせてくれる豊かな表情を見せてくれました。

しかし、ふとした、なんてことない一瞬に「ここから先はよそ者立ち入り禁止」という厳然とした境界線があるのを、その島に関われば関わるほど感じる、たくさんの島でそういう経験を何度もしました。

でも、小笠原はなんだかスコーンと天井が抜けているような、どこまでも入っていいよ〜別に秘密とかないから……といっているような、なんだかそんな気がしたんです。

それは、古い慣習や風習がない、そういうことと関係していたのですが、私はそのスコーンと突き抜けた感じが好きになり、それで「ここに一度住んでみたい」と思ったのでした。

 

続きを読む 0 コメント

小笠原は東北を忘れない(1)

写真はボラ仲間のFBからお借りしました。
続きを読む 0 コメント

初めての小笠原-6-何でもない場所で写真を撮るの2

続きを読む 0 コメント

初めての小笠原(6)何でもない場所で写真を撮る

アメブロからお引っ越ししました。

 

アメブロの記事もいずれ、徐々にこちらに移行していく予定ですが、これ以前の記事は恐れ入りますがhttp://ameblo.jp/ogasawarajikan をご覧くださいませ。

 

 

今回、最初は「ここで写真を撮れば間違いないけど意外に知られていない絶景ポイント」を紹介しようと思ってたんですが、気が変わりました。

 

写真って、「今見た風景に感動したからそれを残しておきたい」と思うのが動機ですよね。普通は。

だから旅先の写真って、後で見返してそのときの気持ちや会話、におい、風の強さや暑さ……そんなものがよみがえってくるようなものが、最終的に何度も見返す写真になっていくのではと思います。

 

で、それが絶景ポイントならなおさらいいんですけど、普通に宿の周りを歩き回っていける範囲で撮った写真が、そういう「雰囲気」が入った写真ならなおいいじゃないですか。

ということで、集落が1つであるために宿の周りはだいたい同じ範囲となる母島を例にとって、こんなところでもこんな風に(私にとっては)いい感じに写真が撮れるという、ややこじつけの内容です。

(何度も見返していると、人様に見せる写真なのか?という多大な疑問がわいてきますけど、同じポイントでもっといい写真を撮ってくだされ!)。

 

 

●前浜 ガジュマルポイント(地図①)

 

前浜は漁協売店と農協売店のすぐ前にある浜。ここでは日中、まだ保育園に入る前の小さいお子さんとお母さんたちの憩いの場になっています。夏休みになれば子供たちが泳ぐ姿も見られます。

浜の入り口にガジュマルがあって、その下にベンチがあるので、日中はお母さんと子供が、夕方からは缶ビールを持った人たちがそこに訪れて、島の憩いの場となっています。

あんまりにもよく通る場所なので特段カメラを向けない人も多いでしょうし、島の人がいるときには写真を撮りにくいものです。でも、朝早くや夕暮れはとてもいい感じです。

続きを読む 0 コメント

2016八丈島紀行 ひょいっと(1) amongのふたり

amongのふたり。左から金子桃子さん、中村寛子さん。

八丈島を訪れたのは、15〜6年ぶりだった。

一時期はダイビングやガイドブックの取材で年1〜2回訪れていたと思うのだけど、最近はすっかりごぶさたで、おがさわら丸のデッキから眺めるのみになっていた。

よく行っていた当時の八丈島の印象は、よそから来る人を受け入れるオープンな気風は感じたけれど、ホテルが閉館したりお店が減ったりと、人口が減り島の元気が少し無くなっているような気はしていた。

 

当時の人口は8000人ぐらいだっただろうか。

現在は約7000人というから、やはり「かつて人気だったさびれた場所」になってしまっているのかな……という勝手な憶測で島に入ったところ、まったく期待を裏切られた。

 

えっ、何、この楽しそうで活気があって、若い島!

 

30代、40代の移住者たちが、新しい仕事や活動を根付かせていて、それが島の印象をがらっと変えている。

 

数回にわけて、その驚きとステキさを伝えてみたい。

 

今回、古い友人の岩崎由美さんに全面的にお世話になった。

そもそもは、朝日新聞出版のWEBメディア「dot.」で八丈島乳業(株)の話を書きたくて出掛けたのだけど、せっかくだからもっといろんな人にも会いたいと呟いたのを受けて、たくさんの人とあえるようにセッティングしてくれたのだ。由美さん、ほんとうにありがとう。

 

今回会った人たちの自然体と、それなのにやってることのすごさのギャップ、でもキーワードは「ひょいっと」かなと。

 

どの人も、やる前に大変だ、苦労する、どうすればできるだろうとか考えすぎず、「ひょいっと」飛び込んでやっている。

 

金子桃子さんと中村寛子さんもそんなひとたち。

年齢をお聞きしなかったけど、おそらく20代後半か、30代前半であろうふたりは、アパレルのオリジナルブランド「among」を展開している。

 

金子さんは八丈島在住、中村さんは横浜に住んでいる。

ふたりは以前、ビーガンカフェで働く仲間だった。そのときには特に深い話をする間柄ではなかったが、偶然おなじころに退職し、では会おうかと職場の外で会って話していたら

 

「考えていることとか、やってみたいこととかがおもしろいほどおなじだったんです」。

 

じゃあ、ふたりで何か新しいことをしようよ。と、そこからコラボが始まった。

 

やったことあるのはカフェだよね。

うん、でもカフェ経営はちょっとむずかしいし、それがやりたいことかな?

そうだね、好きなことはものをつくることだよね。

 

そんな会話があったかどうかは定かではないけれど、いろいろとふたりで顔をつきあわせ「じゃあやってみよう」と決めたのが、

 

「アパレル」!

 

やったことがない人が手がけるには、ハードルが高そうな、アパレルのオリジナルブランド展開を選んだふたり。

もちろん、立ち上げるだけなら今はいろいろなサポートサービスがあるけれど、継続させていくにはかなりの努力が必要になりそうな仕事である。

 

でもふたりにはそんなことは関係なかったのかもしれない。

 

「えーい、やってみよう! って思ってはじめました」

と、くったくなく当時のことを語っているからだ。

 

わたしがふたりに出会ったのは八丈島の「空間舎」というカフェ。2階でふたりがポップアップストアといって、実験的に製品販売を行っていたときだった。

 

そこに広がっていたのは、鮮やかでありながら、目にすんなりと入ってくる色! どうして、黄色や赤など激しい色も多いのにこんなに落ち着くのかな? 

 

そうだ、この色は自然の中の花や緑と同じ色だからだ! と、気がつく。

 

そして、デザインがまたとてもおしゃれなのだ。幾何学模様を組み合わせたようなもの、花と葉、それに縦線を組み合わせたもの……うーん、言葉にしてしまうとうまく伝わらないので、amongのサイトをぜひのぞいてみてほしい。

 

ストールはコットンのものと、シルク混のものがあった。

 

「シルクは横浜の職人さんに頼んで手作業でプリントしてもらっています。横浜はもともと、スカーフなどをつくる職人さんが多かったんです。いまもその技術を持っている方に抜染で型染めをお願いしています」

 

と、中村さんが説明してくれる。

デザインがとてもステキだけど、図案はだれが描いているのですか? とたずねると、

 

「ふたりで紙に書きながら練り上げていくんです。こんな風かな? ここに、こういう模様が組み合わさると、もっとすてきじゃない? そうだね、だったらこの部分はこんなふうにカットして……みたいな感じで、ふたりでつくりあげていきます」。

 

今回のテーマは「ひらく」。

それぞれのデザインは色違いがあり、1つ1つに言葉がついている。

 

桃栗三年柿八年 というデザインにはピンク(安心)、オレンジ(収穫)、グリーン(調和)という感じだ。

「これ、すてきだわ」

 

訪れた島の女性がシルク混のストールをふわっとまとう。

窓からの光線で透けて見える、そのあんばいがとてもうつくしい。たとえは変だけど、美しい昆虫の翅みたいだ。

 

でも、ストールは18500円、税込で19980円。

即決で「ください」というには少々決心がいる。

ところが、わたしが滞在していたわずか30分ぐらいの間にたちまち2枚もストールが売れた。

 

彼女たちがつくるものはそれだけ魅力的なのだ。

思うに、色やデザインもだけど、タイトルにこめられた「意味」が、製品からつたわってくるからではないだろうか。

 

たとえば、「海 カリフォルニア」と名付けられたハンカチについて、Facebookページでこんな記載をしている。

 

「海中から太陽を見上げた時に見えた光の景色をデザインしています。

普段 陸にいるいる私たちは、海の中のできごとを想像することはあまりないかもしれません。

忙しい時こそ視点を変えて、リフレッシュできたらいいなー!

そんな風に考えて生まれた海のデザインです。

今日も新しい視点を持って、色々なものごとを見つめられますように。」

 

こうした思いでつくられた製品だから、身につけたときにそのメッセージが身体に伝わってくるのではないだろうか。

だって、1つ1つ思いを込めてつくられているものだから。

 

 

金子さんはもともとアパレルに関する専門学校の出身ということだから、ものづくりの工程は知っていたのだろう。

でも、商売は? どうなのだろう、たぶん、今が初めての取り組みなのでは?

 

amongは今年3年目を迎える。

一般的に、起業してから3年目までがもっとも苦しい時期とされる。それをもう超えようとしている。

 

もちろん、ふたりの笑顔のうしろには、言葉にできない苦労があったかもしれない。でも、「やってみよう!」で、ふつうの人がためらうことをひょいっと飛び越えた。

 

次は八丈島バージョンをリリース予定というふたり。

どんな色、デザインが飛び出すんだろう。

きっと、八丈島の濡れた緑、あふれる光線、色とりどりの花、そして開放的な空気が布の上でおどっているにちがいない。

 

among HP

http://www.among.jp/index.html

0 コメント